日本経済の長期停滞を表す言葉として定着した「失われた30年」。この間、日本では所得格差が拡大し、豊かさを実感できない人が増えた―。そうした見方は広く共有されてきた。
しかし、日本銀行政策委員会審議委員を務め、リフレ派の経済学者として知られる原田泰氏は、「格差は拡大していない」と指摘する。問題は格差の拡大ではなく、日本人の所得そのものがほとんど増えてこなかったことにあるという。
昨年、グローバル政策研究機構(GRPI)の「エビデンスを活かした健康づくり政策研究会」で座長を務めた原田氏に、今回は本来の専門分野である経済政策について、データや経済理論に立ち返り、日本はなぜ長期停滞から抜け出せなかったのか、そして再び所得を増やしていくために何が必要なのかを聞いた。インタビューの模様を、前後編にわたって紹介する。
名古屋商科大学ビジネススクール教授 原田 泰
東京大学農学部農業経済学科卒業、米ハワイ大学経済学修士。学習院大学博士(経済学)。1974年に経済企画庁に入庁し、国民生活局国民生活調査課長、調査局海外調査課長、財務省財務総合政策研究所次長などを歴任。その後、大和総研専務理事チーフエコノミスト、早稲田大学政治経済学術院教授などを経て、2015年から2020年まで日本銀行政策委員会審議委員を務めた。
一般社団法人グローバル政策研究機構(GRPI)の「エビデンスを活かした健康づくり政策研究会」で座長を務め、「健康づくり政策の実効性・実践性向上に向けた提言」の取りまとめに携わった。
格差は拡大していない
一般社団法人グローバル政策研究機構 代表理事 黒田岳士(以下 黒田) 日本ではよく「失われた30年」と言われます。国際的にも所得格差の拡大が議論される中、日本でもこの30年間で格差が拡大したと感じている人は非常に多いと思います。実際にはどうなのでしょうか。
名古屋商科大学ビジネススクール教授 原田泰(以下 原田)まず事実を見ると、格差は拡大していません。
格差といっても、所得再分配前の所得と、所得再分配後の所得と二つがあります。確かに所得再分配前の所得を見ると格差は拡大していますが、それは高齢化によるところが大きいのです。
若い頃は、だいたいみんな同じような初任給から始まります。最近は初任給にも多少差がついていますけど、それほど大きくは違わない。それが年齢を重ねていくと、課長になった人、部長になった人、役員になった人と、どうしても差がついてくる。さらに退職後にも差がつきます。
つまり、所得の差が大きくなる年代の人が増えているので、社会全体を平均すると格差が拡大しているように見えるわけです。同じ年代の人だけを見れば、格差は拡大していない。むしろ縮小しているぐらいです。
もう一つは所得再分配後の所得です。所得が多ければ税金を多く払いますし、高齢になって労働所得がなくなれば年金を受け取る。そうすると、所得再分配後の所得では格差は拡大していないということになります。
黒田)そうすると、実際には格差が拡大していないのに、なぜこれほど多くの人が「格差が拡大している」と感じるのでしょうか。
原田)アメリカなどで格差が拡大しているというのは事実だと思いますけど、日本ではそうなっていない。日本の場合、格差は拡大していませんが、所得が拡大していない。私は、これが大問題だと思います。
所得が増えていないから、自分がうまくいっていないという感覚がある。その一方で、周りを見るとうまくいっているように見える人もいる。そうすると、自分だけ取り残されているような感覚になるのかもしれません。しかし、実際には皆の所得が上がっていないということなのです。
黒田) そうすると、本当に問題なのは格差というより、皆の所得が増えていないことになります。日本の所得を増やすための政策については、さまざまな提言がありますが、原田さんは今、何をやるべきだと考えますか。
原田)難しいことをやろうとしないで、ごく普通のことをやるのが大事だ思います。
例えば、1980年には日本より貧しかったのに、2026年には日本より豊かになっている国・地域が13あります。台湾、韓国、イスラエル、チェコ、ポーランド、アイルランド、リトアニア、スロベニア、スペイン、キプロス、香港、マカオ、マルタです。
もちろん、世界には200近い国がありますから、そのうち13しかないと考えれば、日本も頑張っているという見方もできるかもしれません。しかし、1980年代、特に80年代の終わり頃には、日本はこれからどんどん豊かになると、皆思っていました。それを考えると、やはり残念なことです。
だから、まず考えた方がいいのは、そういう国々がどうして豊かになれたのか、そして、なぜ日本は豊かになれなかったのかということだと思います。

黒田) 例えば、どのような国が参考になりますか。そうした国と日本はどこが違うのでしょうか。
原田)一例が、ポーランドです。別に何か特別な国というわけではありません。もちろんショパンの国ではありますけど、ごく普通のヨーロッパの国です。ルーマニアやハンガリーも、まだ日本より豊かというわけではないものの、所得水準はかなり日本に近づいています。
東欧諸国は、1980年代までは共産主義体制でしたが、90年代に体制が変わり、経済活動を自由にし、海外資本を導入し、貿易は自由になりました。日本企業もかなり進出しています。
もちろん、それだけですべて説明できるわけではありませんが、違いはそのぐらいではないかと思います。むしろ日本は、自分たちで色々と邪魔をしているのではないかという気がします。
黒田)「自分たちで邪魔をしている」というのは、非常に興味深いですね。
原田) 例えば韓国のドラマを見ていると、国際的な制度を色々と目にします。
容疑者を逮捕する時には、「あなたには黙秘する権利がある」「弁護士をつける権利がある」といったミランダ警告(米国で確立した刑事司法手続き)を実施する。銃を使わず、電流を流して一時的に麻痺させるテーザー銃も使用する。性犯罪者などに、GPS付きのアンクレットを装着させる場面も出てきます。
韓国の人たちは、他の国でやっていることを見て、「あ、これはいいな」と思ったら、そのまま取り入れているように見える。
ところが日本は、何か新しい制度を取り入れようとすると、いくらでも理屈をつけて入れない。
黒田) 私も規制改革に関わる仕事をしたことがあるので、それは実感するところがあります。「海外でやっていて、いいものならやればいいじゃないか」と思っても、なかなかそうならない。
原田)古い制度にこだわりがあるなら、別に最初から全部なくす必要はありません。新しいものと両方やってみればいい。その上で、良い方を残せばいい。
しかし日本では、何か別のことをやろうとすると、ともかく反対する。それで、延々と実証実験をやっていたりする。日本人も、もう少し素直になった方がいいのではないかと思います。
「減税も規制緩和」―企業の成長を妨げない税制に
黒田)そう考えると、日本人の所得を増やすために、何か特別な成長戦略を考え出すというより、まず新しいことを自由にできる環境をつくることが重要だということでしょうか。
原田)そうですね。そういう意味では、減税も規制緩和の一つだと思います。
例えば法人税です。現在、中小企業には所得の一部について15%の軽減税率が適用される一方、大企業には23.2%の基本税率が適用されている。私は、法人税の税率を、企業規模に関わらず一律で15%にすればいいと思います。
また、企業が実際に負担している税金は法人税だけではありません。地方法人税、法人住民税や事業税などもあり、仕組みは複雑です。私が特に問題だと思うのは、企業が成長していく途中で、税負担が重くなる局面があることです。
黒田)頑張って会社を大きくすると、かえって負担が重くなるということですか。
原田)そうなのです。財務省の法人企業統計を見ると、税引前利益に対する実際の税負担率は、資本金1000万円未満の企業で30.7%なのに対し、1000万円から5000万円未満では43.6%と最も高くなっています。5000万円から1億円未満では39.5%、1億円から10億円未満では30.8%。10億円以上になると17.4%です。
資本金1000万円の会社を10億円の会社にするというのは、普通の人にはなかなかできないですよね。でも、1000万円から5000万円なら、頑張ればそこまで会社を大きくできる人はたくさんいると思います。
ところが、まさにそういう規模の企業で、利益に対する実際の税負担率が最も高くなっている。これから頑張って会社を大きくしよういう人の負担が重くなる、そういう状況は変えたほうが良いと思います。
黒田)ただ、法人税を下げるという話になると、「その財源をどうするのか」という議論が必ず出てきます。
原田)もちろん、税率を下げれば、単純に計算すれば税収は減ります。
ただ、大企業の場合は、事業や投資をどの国で行うかなど、中小企業に比べてさまざまな選択肢があります。実際の税負担率が低いことを見て、大企業にもっと課税すればいいという議論もありますが、税率を上げれば、その分だけ税収が増えるとは限りません。税負担が重くなれば、企業活動を海外に移すことも考える。そうなれば。日本で課税できる利益も減ってしまいます。
それから、税金が高いと、企業は税負担を減らすために色々なことを考えるようになります。できるだけ黒字を出さないようにするとかね。
それなら、税率を低くして、「税金は安いから、ちゃんと払ってください」という制度にした方がいい。
法人税率を一律15%にした場合、単純計算では税収が2~3兆円ぐらい減ることになります。ただ、実際には税率が変われば企業の行動も変わりますから。実際の減収はそこまで大きくならない。
税率を上げれば、その分だけ税収が増えると思っている人もいるかもしれませんが、そうではない。税率を10%ポイント上げたからといって、税収がそのまま10%ポイント分増えるわけではありません。
黒田) 所得を増やすために政府があれこれ複雑な仕組みを考えるより、規制や税負担と軽くして、企業や人が新しいことに挑戦しやすい環境を作る方が、結果として所得も増えていくという考え方ですね。
原田) そういうことです。今の制度だと、所得が一定額を超えると税率が上がったり、企業が少し大きくなると負担が重くなったりする。そうすると皆、税金を払わないために色々なことを考えるようになる。
そんなことを考えなくていい制度にした方がいいのです。
日銀利上げ-上げなくて良いが、上げないのは難しい
黒田)ここまで、日本がなぜ長い間所得を増やすことができなかったのか、そして、所得を増やすために何を変えるべきなのかについて伺ってきました。
一方で、経済を支える金融政策は、いま転換点にあります。日本銀行は9月の金融政策決定会合で、政策金利を0.25%引き上げ、1.25%とすることを決め、利上げのペースが加速しています。リフレ派という立場から、今回の利上げをどう見ていますか。
原田) やはり、ここで上げないというのは難しいでしょうね。リフレ派としては、上げなくていいと思いますけどね。
ただ、いろいろな立場がありますし、市場も利上げを織り込んで動いています。そこで上げなければ、流れが止まり、また円が大きく下がるかもしれない。そうすると、「日銀が利上げしなかったからだ」と批判されることになります。為替は金利だけで決まっているわけではありません。しかし、一度そういうストーリーができると、市場はそれに沿って動いてしまうところがあります。ですから、ここで上げないという判断は難しいと思います。
黒田)金融政策がこれまでとは異なる局面に入る中、日本経済をどう成長させ、所得の増加につなげていくのか。後編では、こうした環境の変化を踏まえながら、現在の高市政権の経済政策をどう見ているのか、詳しくお伺いしたいと思います。
―後編に続く